2005年05月11日

宗教について

私は特に信仰をもっていないですし、元妻の実家はクリスチャンでしたが、子供達には宗教の話しをとりたててした覚えはありません。ただ、子供達が話して解る年齢になってからは、オウム真理教の事件や、PLOとイスラエルがテロを起こした時などに少し話しをしました。宗教についてどれくらい理解してくれたかは判りませんが、とにかく何ごとをやるにも自分でちゃんと善悪を判断する、判断できなくても考えてみる事を教えました。私は宗教自体は否定するつもりもありませんが、妄信的になってしまうのは、宗教に限らず良くないと思っているからです。

日本のように無信仰な人の多い国は世界でもかなり特殊ですが、他国の場合で言うと宗教のシェアは言語と比例していますよね。当然なことだと思います。言語が産まれたときから馴染んでいて、自然に話せるようになるのと同じように、宗教も産まれた時から身近にあれば何の疑問も持たずに馴染んでいくでしょう。蛇足ですが、国際結婚で父親と母親が別の言語を話す家庭に生まれた子供はしゃべり始めるのが遅いと聞いたことがあります。きっと小さな脳で環境を判断するのに、時間がかかるのでしょうね。子供の頃から環境によって身に付いた宗教と、日本のようにある程度の年齢になってから心のよりどころとして入信したり、勧誘されて入信する宗教とでは根本的に違いがあるように思います。

よく文明の発達していない地域の原住民と呼ばれるような人たちは、身内や同じ村の人が亡くなると、みんなで涙を流して定められた神聖とされる場所へ亡骸を葬りますね。また、狩りに出かけるときには獲物が獲れることを祈り、獲れたらまた感謝の祈り、全て自然信仰ですから、相手は山であったり太陽であったりするわけです。

個人的にはそれでいいと思っています。日本でも「いただきます」や「ごちそうさまでした(岐阜県などでは、いただきました、かな?)」という言葉がありますね。あれは誰に対して言っている言葉だと思いますか?お母さんなどのご飯を作ってくれた人?お米を作っている農家の人?それとも天の恵みを与えてくれた自然?神様?それとも全てのものに感謝の気持ちを忘れるなという自分への戒め?
多分、実際にはそれほど深い考えをもって口にしている言葉ではないと思いますが、こういう身に付いた言葉の習慣があればいいのではないでしょうか?そして家庭で子供さんとこんな言葉の意味を話し合ってみることもいいのではないでしょうか?もしみなさんの子供さんが、それさえ言葉にしないなら少し問題だと思います。

長くなりそうなのでこの記事は二回に分けようかとも思ったのですが続けます。
子育てに関連することはここまでですので、残りは追記に書きます。
興味のある方には読んでいただければ幸いです。




人気blogランキング私は小学五年の頃だったと思いますが、死ぬと言うことが怖くて何日も眠れない日が続いたことがあります。それは、震えがくるほどの恐怖で、昼間はあまり考えずに済むのですが、寝る時間になると同じ恐怖に苛まれるのです。私の頭の中に巡っていたのは無限の時間でした。死んでしまったら話すことも遊ぶことも食べることもずっとできなくなる。このずっとという無限の時間が怖くて、逆に死んでから霊魂のようになってまたずっと意識があるということも怖かったのです。もう逃げ場のないどうしようもない状態でした。親に訴えようにも何が怖いかを説明するのが当時の自分には難しく感じてできません。
ある時、父親に「死んだらどうなるの?」と意を決して質問すると、無信仰を自負する父親は「無になるだけや」と言下に答えました。
この恐怖心は考えないようにすることでいつの間にか消えていきました。それでも考えないようにすることはとっても困難だったのを覚えています。

人間が考え出した数字なら、ゼロをいっぱい付け続ければどこまでも無限なのは解りますよね。でも宇宙が無限とか言われても私の理解の域をこえています。宗教にはどれにも死後や魂などについての定義や宇宙観があります。要するに人間が考えても答えのでないものについての答えのようなものです。もし興味のある方は図書館などで色々な宗教について書かれた本を読んでみられるのもいいと思います。

最後に、私の無信仰な父親がよくこんな事を言います。それは日本の戦争を例にとっての話しなのですが、さっきの「死んだら無になる」という考えに基づいています。よく心霊スポットだとか、心霊写真だとかいって、霊の怨念で病気になったとか、事故を起こしたなんていう話しがありますね。父親は仮に百歩譲って死んだら霊になるとしよう。そしたらアジア各地で、そして日本各地で国や家族を守ろうとして死んでいった人の霊が、原爆を積んだ飛行機の一機も落とせないのかと。また自分の子孫が墓参りに来ないからと言って、子孫を恨んで災厄をもたらす先祖なんてどこにいるかと。

私も死んだら献体でもして、適当に葬ってもらえばいいというのが考えです。ただ、残されたものがそれで納得できなかったり悲しむのなら、子供達に任せたいと思っています。生きて残る者が大切ですからね。

最後は少し宗教から逸脱した話しになってすいません。<いつも最後に謝ってる(^_^;)>
posted by ソウリュウ at 10:56| 大阪 | Comment(7) | TrackBack(0) | 子育てについて | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
ソウリュウさん、コメント有難うございました。
何だか、昨日から私の宗教感が大きく変わってきています。私は死んだら絶対に魂が残る、と考えています。それは今も変わらないのですが、確かに生きてる人に災いをもたらす先祖なんているんでしょうかね。ソウリュウさんのお父様の言葉がとても心に響いています。お墓にしても、あるから墓参りに行くのであって、なければ空に向かって話しをするくらいしか出来ませんものね。
この問題はまたじっくり考えてみようと思います。有難うございました。
それから、うちの母がソウリュウさんの記事を、初めから全て読破しました(笑)そして、『こんないいブログ、もっとたくさんの人に読んでもらわないともったいない!』と申しておりました。私もそう思います。ランキングの順位なんかどうでもいいという考えのもとで、ランキングに登録して頂きたいです。アクセス解析によると、ランキングのページから来て下さる人ってとっても多いんですよ。ソウリュウさんのブログもたくさんの人に読んでもらうために、是非登録ご検討お願いします。じゃないと本当にもったいない!!!
Posted by makiko at 2005年05月11日 11:05
makikoさん、いつもありがとうございます。それにしても、makisoさんは本当にキーボードを打つのが早いようですね!さっき書いたばかりの記事にもうコメントを頂いていたので驚きました。読むのも早いのかな?そしてお母様がこのブログを読破していただいたと聞いて、本当に光栄に思っています。私は、ブログランキングとかに登録するのが嫌なのではなくて、やり方が解らないだけなんですよ(^_^;)それに、もしコメントを頂いても、makikoさんのように、こまめに対応できる自信がなくて・・。また時間がある時に教えて下さい。
Posted by ソウリュウ at 2005年05月11日 11:36
はじめまして。と言っても、双龍さんのブログは以前から読んでいました。
私も子どもの頃、人間の死に思いを巡らせた記憶があります。実家は浄土真宗でしたが、日本人の一般的な感覚なのでしょうが、父は浄土真宗については何の知識も無く、それが嫌で、中学生の頃から教会に通い、今でも通っています。私の子どもは幼児洗礼を受けています。
最初は、死んでからのことへの興味から信仰を持ったのですが、今では信仰は死んでからのためよりも、今生きるために必要なのだと感じます。実際、私が死んだときのお葬式は、何の宗教でもいいと思っています。双龍さんのおっしゃるように、残された人たちが納得できる形が一番良いと思います。
どの宗教も、自分が生かされている存在だということと、自分をとりまくすべてのものへの感謝の気持ちが重要なのではないでしょうか?「いただきます」「ごちそうさまでした」と言うことは、信仰心のひとつだと思いますよ。
Posted by nitonyan at 2005年05月12日 00:13
(一度書いたコメントが上手く送れなくて、、、
 重なっていたらゴメンナサイ)
はじめまして。と言っても双龍さんのブログはブックマークして以前から読ませていただいていました。私も結婚生活19年で離婚経験者です。まだ子どもは自立していませんが、、、
私は信仰を持っていますが(イベント信者ですが)、信仰心の一番大切な部分は、死んでからではなく、どう生きるかではないかと思います。自分が生かされている存在だと気づくことと、周りの人や物、また起こること全てへの感謝の気持ちが、信仰の本来の意義ではないかと感じます。「(感謝して)いただきます」「ごちそうさまでした」この二つの言葉の奥に。信仰心が生きているのではないでしょうか?
それと、もうひとつ「ありがとう」にも、、、
Posted by nitonyan at 2005年05月12日 00:31
はじめまして。と言っても、双龍さんのブログは以前から密かに読ませていただいていました。
私の実家は浄土真宗ですが、教義を全く知らない父への反発から、中学生の頃から教会に通いました。今となっては父の宗教観は典型的な日本人と理解できますが、あの頃は「もし今、自分が死んだら訳のわからないお経なんて唱えてもらいたくない」などと思ったものです。今では双龍さんと同様に、見送る側が納得できる送り方でいいと思えるようになりました。
信仰心というのは突き詰めて考えると、自分という存在が「生かされている存在」だとわかることと、自分をとりまく全ての人やもの・環境・出来事に感謝することだと思います。そういう意味で「いただきます」「ごちそうさま」そして「ありがとう」という言葉の意味をきちんととらえることができていれば良いのではないでしょうか?
最近はそんな風に感じています。
また読みにきます。
Posted by nitonyan at 2005年05月12日 07:50
やっぱり、、、、重ねてコメントしちゃったみたいです。ごめんなさい。汗!
Posted by nitonyan at 2005年05月12日 07:51
nitonyanさん、はじめまして!そしてコメントをありがとうございます。どこかで自分のブログを読んでくれている方が居て下さるのは嬉しいことですね。私が恩師と慕う人も特に宗教は信仰していませんが、nitonyanさんと同じ事を言っていました。
その人は人生の成功者とも言うべき人ですが、「生かされている」そして「今自分が手にしたお金も一時的に有益に使いなさいと、預かっているだけ」と言うようなことをおっしゃいます。まだ子供が自立されていないのなら、大変でしょうが頑張って下さいね!私もnitonyanさんのブログに遊びに行かせてもらいます。これからもよろしくお願いします。
Posted by ソウリュウ at 2005年05月12日 08:39
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